終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

隣人を殺してはならない

タイトルの通り、この記事は『隣人を殺してはならない』という内容である。
こんにちは僕です。

この間の記事はだいぶふざけて書いたけれども、読み直してみると結構的身に冷静に書いていた。
そして、今の時世だ。日本だけが浮かれているという流布がなされているが、それは違う。
日本だけがまともで、隣国が異常である。
つまり我々が楽観視しているものが正常であり、パニックんあればなるほど、深刻な事態になる。

僕よりもさとく賢い人間がごまんといるのに気が付かないはずがない。

オセロというゲームがある。
初めて祖母とオセロをしたときに僕はルールを知らなくて、好きなところにおいて、好きに裏返した。
しかしそれは間違っている。
僕は囲碁のルールを知らない。
つまり、ルールさえわかれば、それは勝っても負けてもゲームになるということで、僕の一番の不可思議は、なぜ二元論でしか世の中は語れないのか?ということだ。

世の中にはあいまいなことは多いが、二値化することに意味がある。

そもそも僕たちは別に何ら指針も与えられていないし、どうにでも生きていけるはず。
僕自身がくるっている可能性は排除しない。
これは、僕が何度も死んでいる可能性を示唆している。
犯人は不特定である。
ただ、それを突き止めることは無意味だ。
なぜなら社会というものが幻想だからだ。
つまり、新用途は虚実であり、信愛は本物だからだ。

隣人を殺してはいけない。

いいか。君の愛しい人間がいくら疑わしかろうが、殺してはいけない。
それは、社会というまやかしに波紋を広め、疑問を抱かせる。
そして自信を傷つける。自分のために人を傷つけるべきではない。
人間を殺す理由を見つけてはいけない。

今はおとなしくすべきだ。感情を無にし、ただ時間が過ぎ去るのを待つべきだ。
おそらく。

隣人とはだれか。
ここが一番の肝だ。
隣人とは、友人であり最愛の人々だ。その人たちが来る区過労が、助けるべきでできる限りのことをすべきだ。
そうやって。我々は救われる。
神様は、心にいるが、残念ながら共通なものではない。
神様は幻影であるが、実在する。
それが隣人だ。
だから殺すべきではない。いくらその人がくるもうが、幸せを願い、そして幸福な死を望むべきだ。
介在すべきではない。
それは僕のように心を壊してしまうことになる。

人間はひとを殺めることはできるが、隣人を殺すことは許されない。

隣人は殺すべきではない。