終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

僕がなぜ中間成果物が出ないかということへの言い訳

将棋や機械学習について、全く僕自身知識がないのだけれども、色んなアプローチがあるということだけを知識として知っている。
でもどんな方法があるのか具体的なものは知らない。

こんなことどうなのだろうかと思っていることが一つだけあって、すでに実践されている方はいらっしゃると思うのだけれども。
将棋なら
『終局状態を先に決めてしまって、そこに対して臨む』
と言うもの。

なんでそんなことを思うかというと、自分が日常生活の中で、何らかの課題が出てくる。
そんな時に自分がどのようなプロセスで課題に取り組んで解決しているだろうと思った。
結論から言えば、結果を先に決めてしまっていることが多い気がする。
もちろん、揺れるし、そのとおりにいかないことばかりなのだけれども、最初期時点でかなりの可能性を刈り取ってしまって、目標に向かって最短距離を走れるようにしている気がする。
過程やプロセスはもちろん大事なのだけれども、それはコミュニケーションなどのパフォーマンスだと考えていて、生きていく上での演出と言うか、本来的に必要ないのではないだろうかと考えている。

結果的にそれが、正しいかどうかというかということは、それを評価する何かが決める。裁定者は自分であることもあればそうでないこともある。
正しくなければ、もう一度イテレーションを回せば良い。
イテレーションを回すためには時間が必要になる。
なのでイテレーションを早く回す必要がある。
生活や生きる為のサイクルをコンパクトにして、イテレーションを回せる機会を増やす努力をしている用に感じている。
結果として、過程よりも結果に幅をもたせるように努力している。

と、言うような生活を送っているので、結果を常に意識して(結果は常に勝っている想定)、そこに至る最短のプロセスを組み立てればよいのではないかと思った。
そこに至る過程は無限にある。しかし結果は同じなのだ。(勝つということにおいて)
何に勝つと言っているのかというと、正しいという回答を得られること、なのだと信じている。

僕はゲームが好きだだけれども、機械と行っても、対人戦でもほとんど勝てない。
ルールを熟知しないから、自分の中での最適解を見つけられていないのだと思う。
ゲームもトレーニングなのだと思う。
ソラで歌詞とメロディを覚えていれば歌を歌える。
そのように至る回答を達成するためのトレーニングが十分であれば、省ける手順はガンガン省けばいいと考えている。

うまくまとまらない文章になってしまった。

どこかでまたかけたらいいなと思う。