終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

スラムダンクを見て2週ほど経ちました

暖かくなったり寒くなったり。
こんにちわ僕です。

最近ひどい夢を見たりして、あまりにも最低な気分になったので助けを求めていたりしますが、これは別の話にさせてください。
スラムダンクを見てきました。
最近涙もろくなってきたのか、何度か泣きました。
そしてジャンプの主人公というものがどれだけ偉大な発明なのかということに気が付きました。

これは僕が高校生の頃の話です。
演劇部に入っていました。演劇部というのは面白いもので大会があるのですがこれは一校では成立しないため、複数の高校が絡むことになります。
舞台には照明や音響、更に舞台セットなども必要であり、これらを専用の舞台で組むことは不可能です。
なのでセットを素の舞台から組んで演劇を開始し、緞帳が降りたら撤収する必要があるのです。
これを10ぐらいの高校がステージをシェアするので、大会よりも前から他の高校とのやり取りが重要になります。

公演に当たり、舞台が強い高校ほどその思いが強くなります。
残念ながら自分の高校はそもそも舞台をする最低人数すら確保できていないような状況だったのですが、どんな高校であれ会議には呼ばれるのです。
どのような環境でどのような舞台をしたいのか、会場は何処とか希望はあるかという、そういう議論です。
特に興味なく会議に出た人はその熱量に圧倒されるのです。

とある会議で秋の地区大会のための舞台をどうするかという議論がありました。
強豪校の方たちは特になんの前触れもなく『ゼロから舞台を組み上げたい』といっていました。
僕はなんのことはなくふーんと思っていたのですが、聞けば聞くほどに大変さが伝わってきて、会場はその熱でそちらに傾こうとしていました。
実際になにもないところに舞台を組んだこともあったようで、事前準備は完璧といったプレゼンでした。
僕はなんとなくその方向は嫌だなといった感じで様子を見ていたのですが、同じような弱小高校のよく知らない生徒が手を上げ、異を唱えました。
『本分として舞台をすることであり、それ以外の危険な要素を含むべきではない』
というのがその人の意見でした。

会場は沈黙し、ただ強豪校の人たちはやりたいことを述べていたように思います。
僕も別にその熱量について否定することはなかったですが、やるべきことを自分たちで増やし、さらに怪我などの心配になる要素、そしてなにもないところですから天候などにも左右されるかもしれない。そのような不安を拭いきることは出来ず、決を取った際には無難な方でと手を上げました。
結局僕自身は保身をしたように思います。
もしあのとき、自分たちで舞台を組み照明のバーを上げ、緞帳を吊るすことさえ自分たちでやっていたならどうだったのだろうという気持ちは今もあります。
タラレバの話にはなりますがその可能性について自分が実行しなかったことは杭がないといえば嘘になります。

反対を表明した生徒はどう思っていたのでしょうか?
もしかするとそういった可能性について熱量で現場が押し切ってほしいと思っていた可能性は否定できません。
彼自身をどう捉えるのかということは僕には今となってはわからないことですが、聞いてみたいものです。

しかしその彼は僕です。

素人で熱量もない自分は強豪校の人間の気持ちは当時は1ミリも知りたくないというポジションを取ってみました。
そして熱を帯びていく会議場に不思議と疑問を抱えていて『どうして一般の会場ではだめなのだろうか?』というシンプルな疑問でいっぱいでした。
熱で押し切られてもいいやと思いつつ、しかしそれで何らかの危険がありそもそも上演できるかわからない手順の上でのトラブルを抱え込みたくないというネガティブな意見でした。
しかし、自分のような冷めたものの意見を通してほしくないという気持ちがあったのは確かなことです。
40になって思うことは、若さ故の過ちという感覚は本当にあるのかもしれないというぼんやりとした意識です。

今となって思えばあのときなにもないところに舞台を組み上げてみたいという好奇心を捨てなければどうだったのだろうか?という興味はあります。
しかし別にどっちでも良かったし、自分が投げかけた質問に対してエネルギーで答えてもらうことが出来なかったために実現しなかったのではないか?という気持ちと事実があります。
僕自身はつまらないものですが、そのようなつまらないものの非常にくだらなく前向域でない姿勢が現世なのだとすると、ずいぶんとつまらない世の中を生きているなと思っていたりします。
しかし舞台が特に滞りなく実現されたことは当時はほっと胸をなでおろしました。

当時を振り返ると自分自身がひどく滑稽でつまらない人間であったように感じます。
別に何がどうでもなんでもよかったし、もっと苦労すべきだった可能性は否定しません。
おそらく強調や調和といったものがそんなに好きではないのだと考えています。
意外にも自分は全く穏健派でないことを自覚するに至ることになります。

ただ勘違いしてほしくないことは、自分自身もそのような苦労をしてみたいと思っていたということ。
非日常を体験したいという気持ちは確かにあること。
しかし明らかなのは自分自身の意識を心を持って話しているのであれば僕のようなくだらない人間は周りはどうでも良いと切り捨て、面白いと思えることに偏っていただろうという可能性を否定したくないということです。
つまり、僕を説得する必要などなく、チリのような存在だとして一笑に付すことをすればなんの障害にもならなかったのです。やりたいことが出来た。

ただ単純に熱を帯びる議論に怖くなって疑問を呈しただけであり、対案として今までのものではなぜだめなのだろう?ときいただけです。
未だにそういうことは多く存在しており、僕自身が反省スべきことや謝るべきことは無限にあると思っています。

ここ数年一般的な有名人を知らず怒られることがあります。
しかし別にそれについて本当にっ知るべきでしょうか?
共感はできないので空気の読めない人間であることは自覚していますが、別に困ることもありません。
それでモラルを問われる必要もないです。
非難されるべきは僕のモラルが欠如していることであり、物を知らないことは本筋ではないと考えています。

スラムダンクの映画を見て、桜木花道がいかに物語にとってのアイコンであったのかを感じさせられ、少し泣きました。
理由や理屈よりも、表現で見せるということがいかに大事かということについて泣ける映画でした。
山王はストイックで真面目でクレバーなチームだったのです。
主人公が変わったというレビューが多く僕もそれには同意します。
でもふと思うのですが、花道が作った物語ではあったのです。

これは単純に年を取ったのでそのように見たいという気持ちからくるものなのかもしれません。

スラムダンク見てない人は見に行った方がいい。
有名人を話題に上げる人なら見に行くほうが多分マジョリティだと思います。