終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

最近感じる違和感について(若干の長文)

8月最終日にふさわしい晴れ、深い青と白い雲のコントラストが美しい東京の空
こんにちわ僕です。

最近早いですね。
ということを書きたいのでこれを書いています。

2022年8月のtwitterTLではAIによる画像の話題が多く散見されます。
日本発信のサービスだとmimicというものがあったようですが、いろんな反対意見があり現在は停止したようです。
英語圏のmidjourney、OSSとして公開されているStableDiffusionなどは一部の人を除いて『問題がある』としていた人はそこまで多くなかった印象があります。

ここ最近暇なのでその辺を考えていていました。
オフラインで絵はかけないんだけどデジタルだとめちゃくちゃうまいというのは別に筆がデジタルだからだろうと考え、それ以上考えないようにしていました。
多くの方たちは忘れているかもしれませんが、線の補正や塗りつぶしの判定の自動化、頭のいい自動選択範囲などについて、脳死で『はわぁー便利』と受け入れていたことを覚えています。
それが『ぽく見える』ものが出力されますとなったら猛反対するのはなんか変だなーと考えてしまったこともこのテキストを残そうとおもったきっかけです。

報道が使う『仕事を奪う』みたいな過激な表現にビビりすぎているような気がします。
写真が一部の人に一般的になった時代、筆を折ることを迫られた画家について触れないのはどうしてでしょう。
反面現代において画家という職業は現存しています。
筆を折ることになった画家がその場で死んだわけではないし、そののちも人生をやっていたでしょう。
こういうエポックメイクなことは後にじわっと世界を変えていくことになるし、抵抗しても無駄であるということは誰しもが知っていることです。
これから年末にかけて様々に自動生成されるテクノロジーを見ることになると思いますし、いちいち反発していても勝手に時間は流れてゆくのです。
受け止められない気持ちは分からないではないです。
次に何があるかは次の人が創ってゆくので、自分のようなパンピーは次の人が見せてくれる何かを楽しみにしています。

世の中が早くなっているというのは、相対的に早く感じるのではなくて絶対的にビートが早くなっているということです。
ハード→ソフト→ハード→ソフト というアップグレードにはこの2つがあるということを意識しながら少なくとも平成中期までは過ごしていたと思います。
例えば自動車で考えると、ハードは自動車そのものです。
自動車は人間が運転しますから、最初の自動車の制御を行っていたのはソフトは人間となります。
その後インジェクション、AT、パワステ、エアコン、車高調など、多くの部分が電子制御されるようになり、自動車の中にソフトが持ち込まれ、恩恵として自動車そのものがパワーや安全性を手に入れます。
ハードのアップデートに伴いソフトである人間も快適な空間を手に入れ、車の中に音楽や映像といった新しいエンタメを車内に持ち込むことが可能になりました。
クルーズコントロールなども90年代までのものは一定のアクセル開度を保つ程度だったのが、今では適切な車間を保ち、白線を出ないというような夢のような装備になっています。
ハードとソフトのどちらかが不満を持てば見える形でアップデートされていましたが、目的のために改善されていたという事実があるので今やハードを改善するのかソフトを改善するのかわからない状態にある。と考えてもいいのではないでしょうか?

改善の試行回数が圧倒的に早くなったというのが主旨です。
試験準備とテストの実行をして集計のちサンプルの検証、その後試験準備ということを繰り返すわけですが、現代は人間のほうがその速度についていけていないボトルネックになっているというイメージがあります。
試験はできるだけ私情を挟まないということが求められると思いますが、この私情を挟まないという点において人間の情がある以上直感と反するのでボトルネックなんじゃないかと。
でもなんのために自分たちはツールを創っているのだろう?という疑問があります。
本来であれば自分たちが豊かに生きていくために必要なものが欲しくてクラフトしていたはずです。

これはよく陰謀論などで出てくることですが、『人間は小麦の奴隷である』という表現です。
出典を探すとサピエンス全史で触れられているようです。ベストセラーですね。
自分たちがこれから直面する回避できないイベントとして世界人口の大爆発とともに迎える食糧・飲料危機が来るのは間違いがないです。
もちろんほんの小さな可能性としては人口爆発が起きる前に何らかのインシデントにより大幅に人類が減ることも可能性としてはありますが、いずれにせよ幸せなことではなさそうです。

ちょっと話を戻します。何について早いと言っているのかをもう一度明確な例をあげます。
テレビモニタについて、00年代前半まではでかいモニターはブラウン管でした。
しかしいま世の中でブラウン管を見ることはありません。
日本で一般的だったブラウン管はNTSCという規格のもので、大きくても28型屋32型が多かったのではないかと思います。解像度にすると640px*480px29.97fpsという映像信号のものになります。
これはスマホなどのカメラで換算すると約35万画素です。お手持ちのスマホのカメラにはなんと書いてあるでしょうか?iPhone13だと1200万画素ということになっています。
ここ数年は画素数に意味がないことがわかってきて、夜景などがきれいに取れるモードなどの裏で何をしているのか、それは複数の画像を張り合わせてシャープな絵にするということと、かけてしまった情報を自動的に補完する、ということをやっています。
テレビモニタに戻ると、今お茶の間で一般的なモニターサイズは60型とかは特に驚くべきでもないと思いますし、4K(3840px*2160px 60fps)という規格のデータを受信していると思います。

ここ20年弱の期間で一般的なお茶の間のモニターは、面積が約4倍、画素数が27倍、フレームレートが倍になっていると考えられます。
更に一部のゲーマーの方たちでは、144Hzや240Hzというパネルを使っていることは不思議ではない現状があります。00年代前半では120fpsのカメラでもハイスピードと言われていたことを考えると、当時の自分たちには到底このような世の中が来ることは想像できていなかったのです。
これらについて、お茶の間が望んだものか?と言われるとそうでもないと考えています。
なぜかというとブラウン管が淘汰されたことは様々な要因があるでしょう。
製造しなくなったこと、販売されていないこと、デカくて重くて邪魔なこと、ブラウン管に合うコンテンツがないことなどをパッと思いつくかと思います。
根底に画面としての可能性からブラウン管が排除されているということは要因として小さくないと思います。

このようなドラスティックな変遷を自分たちは身近でたくさん経験しています。
たくさんの身近なものが普通ではなく過去のものとして例外的な扱いを受けることは日常になっていて感覚が麻痺しています。多くの人がもう鉄道に乗って切符を改札で駅員さんに渡すことは殆どない経験と思います。
何なら券売機で切符を買うことすら稀になってきているのではないでしょうか。
耳をすませばの図書館のシーンのやり取りを体験できるのはいつまであるでしょうか?
先日図書館に行った際にほぼすべてのオペレーションが機械で完結しているのを知って、結構びっくりしました。

一つ一つに敏感になってしまうことは別に悪いことではないですが、なぜそんなに一部のものだけに敏感になるのだろう?ということを非常に不思議に感じていたので、この不思議さの一つとして早さかな?と思い、とりあえずざっくり書き残すことにしました。
きっと自分たちは今小麦の奴隷であり、情報の奴隷であり、エネルギーの奴隷でもあるような気がします。
すべてのデータをクラウドに残すと言っていますが、それの不可思議でありこのような些末な雑記を一時的に保存するのはいいですがでもこれははてなに握られているということでもあるわけだと考えると非常に不思議になります。

目に見えている驚異に対してどう対処するのかを割としっかり目に考える必要がありそうだと感じています。