終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

朝五時、心が折れたこと

今は朝の5時前です。
僕です。

心がぽっきりといってしまったことで友人に祝日の夜に話を聞いてもらい、祝日明けの昨日何もしない日を作りました。
そういうことがないようにできるだけ気を付けていたつもりではあったのですが、やれてしまったものにはもうしなやかさはないですね。
金属疲労みたいな感じであっけなくぽきっと折れてしまうようです。

同じようなことを毎回書いている気がしますが、ここ10年という時間で僕が得たものはないような気がしています。
もちろん新しい友人や知識などかけがえのないものを得ているという側面は否定しません。
しかしおそらく失いすぎたのだと思います。
それは自分が不真面目だったとかそういったことに起因することもおおくあると思います。

本当に嫌いなものには近づかないし話にも出さないということを世間でよく言われます。
それは一つの正しさだと思っていて。
10年と少し前父が死んだときにたくさんのもめごとがありました。
当時僕は一つ目の会社を立てたばかりで、お金はなかったのに月に2回は和歌山で過ごすということをしないといけませんでした。

多くは亡くなる前年暮れに父が勝手に再婚していたおばさんとの弟たちが不仲であったことで僕が話し合いをせねばならなかったことも大きいでしょう。
弟の一人は終始キレ散らかしており話の出来る状態ではなく、もう一人の弟はのちに奥さんとなる彼女さんと死んだ父と不仲であったため多くのことを拒絶していました。(父が彼女さんに対しひどい言葉を浴びせていたそうです、父が悪い
また、父の遺言状は500万もの大金をかけて作られており、その中身は父が持っている会社を清算し我々兄弟に1/6の現金を渡すと書いてありました。
それ以外のすべてはそのよくわからん得体のしれないおばさんに渡すと。

その内容に祖父がぶちぎれて弁護士を通し、内容を全部ひっくり返したうえで再婚相手のおばさんにほしいだけの金銭を差し上げて出て行ってもらうことにしたようです。
祖父の代弁者も僕がやりました。
なので条件はさらに悪くなります。
しかし切れている人たちでは話をすることもできず、相続は半年しか猶予がないため、一向に進みません。
当時自分ができる限りのことをしていましたが、今思い出しても自分以外にできる人はいなかったと思います。
しかしやればやるほどどんどん自分の立場がなくなっていきます。弟たちもそうです。
それでもやれる人間は僕しかいなかった。
自意識過剰でしょうか?

そんなこんなで5年もすると今度は祖父がなくなりました。
わりと莫大な遺産を残してくれた祖父でしたが、いろいろなことが重なり現金預金がほぼない状態でした。
もう絶対にもめたくないと思った僕はおじさんにほとんどの処理をお願いしました。
それでも喪主であった自分にしかできないこと、自分が飲めばいい悪い条件などはすべてのみました。

自分が東京にいるというだけで和歌山に帰るのがひどく億劫でした。
それは単純に距離的な問題だけです。
でもそれらはやらなければならないことで、たくさんの助けを借りていたという事実があったとしても事実ずいぶんと自分の時間を使いました。
今年40歳になる僕は、28のころに父が亡くなってから10年以上、人の死について付き合っています。

友人や知人に『なにかしたいことはないか?』と聞いてくれることがあります。
僕は空っぽで何もなく、できればこの孤独について寄り添ってくれる人がいてくれないかなと考えます。
何かをするだけの元気がないことも事実です。
でも、生きていくことは何かをしなければいけないのだし、ずっと休憩しているわけにもいかない。

きっともうすぐいろんな死についての精算が終わるという気がしています。
でも少しだけ心配です。
こんなにも長く人の死について付き合ってきたものがなくなって、僕は本当に生きていけるのでしょうか。

不眠症だしアルコールに溺れ、勉強をすることもやめてしまった自分が真っ当さを取り戻せる気がしなくて怖いです。
夜が明けて、もうすぐ踏切の音が聞こえてくるでしょう。
今日はさぼらず昼から仕事をしようと思います。
こんな僕にもやるべきことが少しでもあるのは恵まれていると思っています。

どんなことになっても生活は続いていくのです。

もう少しだけベッドの上で目を閉じていることにします。