終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

お気持ちをポエムに代えて

6月に入っていつ梅雨に入るのだろう?とビクビクしている。
こんにちわ僕です。

『web3について書きます』と先日つぶやいたとき、記事はすでに書き始めていた。
気がつけば難解なものになり、改めて何を伝えたいのだろう?ということを考えてしまい、アウトプットできなくなっていた。
これはそのうち投稿されるかもしれない記事の中で触れるだろう『ブロックチェーンや周辺技術、メタバースに代表されるxR界隈など』について、興味があるし好きな分野だと表明したい。
しかし完全にこれは逆のことに聞こえるかもしれないが、そこの流れる投機マネーや自称専門家についてほぼ完全に興味がないという立場です。

この文章は気持ちなので、できるだけポエムを書き殴りたい。

しあわせとはなんなのか。
皆様幸せになりたいというふうに常々思っていると思います。
不幸せに生きたいなんて思う人はよほどのもの好きだとは思いますが少しいるとしても社会全体から見ればマイノリティでしょう。
しかし不幸なことにマジョリティだけを見ると、経済的な面で不幸とされている。
本当は数字なんてどうでもいいし、幸せとは無関係なはずなのに、お金や時間などの様々な制約を受け入れながら自分たちは生活をしている。
例えば幸せになりたいがために行う結婚というものについてだって、契約という枷によって自分たちを束縛するという穿った見方もできる。
しあわせとはなんだろうか。

働くということはなんだろうか。
僕たちは毎日働いている。働いた対価として給与をもらったり報酬を得たりしている。
自分などは仕事が楽しければ、仕事も楽しいのにお金までもらえるの?ありがとう!と言う割とこのままのテンションで多くの事柄をやっているのだけれども、本当に嫌なことについてはできればタッチしたくないので、サラリーマンは向いていないと思っている。
常に波が来ないかを観察し、波になりそうであったら準備をする。
生きていて未だにビッグウェーブに乗れたことはないけれども、乗れても困らないように準備しているつもりではある。
だから僕にとって作業があるということは幸せなことだし、ちゃんとアウトプットできている証でもある。

生きていると基本的には仕事をしている人たちのアウトプットで世界が成り立っていることに気がつく。
信じられないかもしれないけれども、身の回りにあるすべてのものが人間が作っているんですよ?
そしてもっと信じられないと思うのだけれども、身の回りにあるものすべてに名前がついている。
僕が幼稚なだけなのかもしれないけれども、どんな小さなものにも名前があってそのすべてのものに基本的にはニンゲンの手が入っていると思うと気が狂いそうになりませんか?

働いているということは身の回りのことを構成することに協力しているということなのかもしれない。

web3についてのなんとなく胡散臭さという社会の流れは、ある側面からしかこの成果を観測できていないことよるところが大きいのではないかと考えている。
正直な話、web3とか言う前にやるべきことがあり、理想論や未来を唱え語る前に考えなければならない世の中の仕組みがたくさんある。
なぜならいま現時点での日本の次元城は不便だからだ。
DXという言葉を使いたいのであれば、少なからず一般化されたスマートフォンからアクセスできる世界を作るべきだし、そういうことがしたくない、全部役所にて紙でやらせたい、というのであれば半端な気持ちで便利になるよという言葉を使うものじゃない。
いま世の中でDXだと言っている人たちは本当に現場を含めたマクロな視点を持っているだろうか?そうなった先の理想を想像ができているだろうか?
レストランの予約システムが未だに電話なのはなぜか考えたことがあるのだろうか?
FAXが都合がよいという人の話に耳を傾けたことがあるだろうか?

正直10年前よりも便利な人は便利になったけれども、不便な人たちはどんどん不便になっていると言うふうに見える。
便利になった人たちだけが便利になり続ける世の中をこれからもつくるというならばそれは選択としてはそうなのだろう。
僕はどちらかといえば便利になったと考える側だし享受しているので特に不満はないけれど。
しかし、本当にそれはほしい未来だろうか。
やはり便利な世の中は、便利だという勢力が圧倒的マジョリティでなければならないのではないだろうか。
それが虚構だとしても、少なくともカルト側に世の中が支配されてしまい、不幸を背負って生きていくよりはずいぶんとマシなのではないかと思う。

多くの人が流行りの言葉に踊らされ過ぎている。
メンズナックルぐらい堂々としてれば、多少の不自由さは気に病まず生きられるのではないだろうか。