終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

本来的にもう我々は自由だと思う

11月になって2021年の核とは何だったのだろうと思っています。
こんにちわぼくです。

人生の転換点というのは何度かあるのだと思います。
僕にもきっとあったのだと思います。
ただ去年から今年にかけての非日常差はまだもう少し続きそうだなと感じています。
主には仕事面で随分と変化があり、何をやったか、何をやっているか、などについて今は話せることはないのですが結構面白い体験ができているし、まだまだ続きそうだなという感じです。
パチンコうったことないですが、確変ボーナス(連チャン)入りそうというところでしょうか?

先日選挙があり僕も期日前に行ってきました。
世の中がドラスティックに変わっていかないように見えているかもしれませんが、明らかな転換点に自分たちは立っているのだなということについてまざまざと見せつけられています。
皆さんもお気づきだと思いますが、生活するのに一番障壁になっているのがお金だということ。

お金はいい面もあり悪い側面も確かにあると思います。
複数の要因によってこの金銭的ないびつさを少し覗き見ているのではないかと思うのです。
我々日本人は憲法のもと勤労が義務とされています。
義務とは、gooの辞典によると『1.人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め。「―を果たす」⇔権利。』とあります。
人間として存在している限り、やらなければならないことであり、そこから逃げることは許されていないわけです。

我々は義務として勤労をし、その対価として賃金をもらっています。基本的には。
しかし本当に勤労が義務である時代なのか?ということについて僕は疑問を感じています。
勤労は権利なのではないかという主張です。

日本国憲法が制定されたのは戦後のGHQ主導のもととなっています。つまり75年も前に制定された義務なのです。
大日本帝国憲法には義務としては兵役と納税があります。
本当に義務として載せるべき事柄であるのでしょうか?少なくとも僕が少年時代を生きた1980年~2000年代前半まではそうだったと思います。
しかし、2017年辺りから現在のことを振り返ってみると、そんなに勤労をしなくてもいいのではないか?と僕は考えるようになってきました。

先にもう一つ思いとして僕はITそのものは個人的には好きですが、まだこの分野は非常に未熟な分野であり一般化したものとは考えていません。
なので教育の中にプログラミングを教えるよりも、構造を理解できるような、抽象的な概念を言語化できるような教育を含めるべきだと考えています。
例えば設計や実装について学ぶことのほうが、場当たり的なプログラミングを学ぶよりもずっと後々役に立つと考えるからです。(偏った思想は生まれるかもしれません)

2017年辺りから何が変わったかというと、そこまででも十分にパワフルだったPCが一気に世の中に普及したことと、ほとんどの人にとってそれらはオーバスペックであることがわかったことです。
携帯端末でも大きな変化があり、例えばiPhoneXが発売された年でもあります。
先進国と呼ばれた人たちの一部に使い切れないリソースを持った演算装置を渡されているわけです。
VRなどでも2016年にOqulusRiftが販売されると続いてHTCviveが続きます。これらは品薄で一般層が満足に手に入れることができたのが2017年頃だと思います。このときちょうどGTX10シリーズが大流行となり、ゲーミングPCが加熱し自作PC界隈を含め大盛りあがりします。
また、テレビの大型化がたぶんこのあたりで進んだと思います。2016-2017あたりの有機ELパネル55インチテレビが安く手に入るようになり普及したからです。
こうして実はすごく基盤的な部分がアップデートされたように感じています。

スペックが上がると黎明期では素人が苦労することが歴史的にもわかっています。
ソフトウェアの成熟を待つべきですが、現代の世の中はハードウェアレベルでの更新をどんどんと迫ってきます。
ハードウェアを理解するためには特性を理解する必要があり、黎明期ではより専門性を求められます。
つまり2021現在は技術者のみを必要とした社会になりつつあるように見えます。

今度は逆にコンテンツについて考えてみると、やはり安易なコンテンツは不完全なインターネット上にたくさん存在していて、日々クリエイターが無限のコンテンツを提供してくれます。
よく考えてみてほしいのですが、都市伝説をめちゃくちゃに興奮するのはなぜかせかいの秘密をしってしまったかのような錯覚をするからではないでしょうか?普段見ない書籍、深夜のテレビ、先輩に連れて行って聞かされた占い。なんでもいいですが、限られた入手経路で得たほんの僅かな情報だから大事だったんじゃないでしょうか?
いまや都市伝説は石ころかのようにそこらじゅうで見つけることができます。さらに自分が知っていると思っていることをコンテンツにするだけで、沢山の人に知ってもらうことができるかもしれません。

我々はすでに便利を享受している状態であり、これから更にどんどんおせっかいにも便利が世界にはびこると思います。
便利さは必ずしも誰かの不便で成り立っているわけではないということです。
序盤で年代について触れましたが、たしかに僕の少年期は誰かの不便によって自分が便利になっていることを知っていましたし、大学生の頃はその不便さによって面白く生きていた気もします。葛藤として息苦しくもありました。
大学院を出て食がなくて困っていましたが結局自分でなんとかするしかなかったのですが、逆に言えばなんとかできたと言えないこともないです。

技術屋での仕事は面白いこともありましたが、それよりも自分がいないと駄目だというよくわからない自意識にとらわれることがしばしばありました。入社すぐの僕が戦力だったわけではありませんでしたが、チームすべてのマシンのパワーと人間の頭数を考えてもどうしたっけ納品できない案件、というものが僕レベルのところにも転がっていたからです。
時間をお金で買うようなことをしなければ世の中は回っていかなかったわけです。

なのでしばしば2015年辺りから本格的に家で仕事できるよね、と思っていたわけですが、座ることが仕事であるという謎の理論によって僕は椅子に座ることになります。
しかしやはり、椅子に座っているだけで全く生産的ではなく、花の水やり、事務所の掃除などが日課になった時もありました。
これらは自分の仕事を交わすスキルが付いただけとも撮れますが、効率的に他の人に吸収してもらって自分のところにはタスクが一切残らないように工夫していたことがあります。寝ても覚めても終わらないタスクみたいなものは自分の世界にはなくなっていました。
そこでふと視線を上げると、世の中は僕よりもずっと高効率になっていました。
意地でも自分でなければ解決できない仕事なんて、小指の先ほどにしか残されていないことに気がついたわけです。

ここで勤労が義務であるというふうな憲法を考えると、僕は義務を履行しておらず憲法違反であり日本人として国に奉仕できていないわけです。座っていることが勤労だとも思えません。
しかし僕は今のところふっと消えるつもりもないですし、かといってやれる範囲の仕事しかしません。
これは誰かが悪いわけでなく世の中の仕組みが変わってしまったことによって、今まで仕事だったものがそうでなくなってしまったことにみんなが気づいた瞬間だったと思います。
必ず誰かがやらねばならない仕事というものはずっとあるということ、それは間違いないです。
しかしもはや、この日常において勤労に励むことは義務ではなく権利であるほうが然るべきだと考えています。
本当の今の自分達の義務は無限のコンテンツ及び善意を享受し、その対価を払うという行為です。

働くことが権利になった世の中ではきっと資本主義とは違う、もっと人間的なのか、それともシステマティックなのかわからないですが少なくとも今とは違う世界で生きることになるのではないでしょうか?
生きてゆくこと、楽しむこと、学ぶこと、対話すること、消費すること。
その上で不便なこと、心を乱されることに対しての自分なりのアンサーを実装できる。
そんな世の中にこれからなっていくんじゃないかと、そんなふうに思ったのでココに書き記しました。

思いついて書きなぐったのでたくさんの説明不足がありますが、まぁいいと思っています。言及されることもないでしょう。
というかきっと僕のように考えている人間は山のようにいるし、ひっそりと自由にやっているのだろうと考えています。
マルクスと同じことを書いているということに気が付きましたが、このまま投稿します。

穿った見方でなくマルクスの著書を読む時期なのかもしれません。

仕事を中座して書きました。ちゃんとやります。すいません。