終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

シン・エヴァンゲリオン新劇場版を見てきた

3/8に劇場公開されたシン・エヴァンゲリオンを3/10の朝に見てきた。

 

少しの感想でもネタバレだと思う人はブラウザバックしてほしい

 

 

 

 

 

 


感想を書き残そうとは思っていなかったのだけれども、考察というほどのものはかけるほど深くも見ていないし、便意に襲われないかずっと気になりながらゆったりとした気持ちでオレンジジュースを口にしつつ3時間弱という時間をスクリーンの前で過ごしたこともあり、ありよく覚えていないということが正直なところ。

僕は何かを見て泣いたりすることがない。
シン・エヴァでも同じでなくことはなかった。
終わったあと映画館から出て、トボトボとまだお昼前の街をあるくと、なんだか少しポッカリとしていると同時に、心が晴れやかだった。
なるほどな、と。『終わったのだ』と。
シンプルにそう思った。

リアルタイムで見ていたわけではなく(和歌山では地上波でまともな時間に放送されていなかったから)、当時パソコンもまともではなかったけれども、全話なんやかんやと映画の前には見ていたはずで、Death Rebirthをリアルタイムで見た気がするけれども、Air/まごころを、君に は前売り買ったのに前売りで見た記憶がない。しかしおそらく劇場では見ている。どういう時系列だったのかは忘れた。
あの頃ちょうど僕たちは14歳で、なんと25年にもわたってエヴァという呪いを僕たちにかけていたんだと思う。

 ー いつだって新しいエヴァンゲリオンが発表されるたびにざわついた。

しかし終わったのだ。多分ちゃんと終わったのだ。僕はそんなふうに思っている。
考察勢はもっといろいろな回収の仕方などを考えて楽しませてくれるのかもしれないけれども、僕はここで一度エヴァンゲリオンときっちりと離れることができると思う。
14歳の僕が抱えていた悩みや、後ろ暗いところも、ずっと引きずってきたような気がするし、そういう暗く陰湿な自分もエヴァを盾に『別にいいじゃないか』何ていうふうに他責で肯定してきた気がする。
しかし終わったのだ。ちゃんと。
こんな事を言うのは変なのだけれども、もう14歳ではないことをやっと僕は自覚できる気がする。

映画館を出て、ずっと行きたかったラーメン屋に行こうと思って、11時半前なのにすでに行列ができていた。普段の僕なら絶対にパスをするのに、やっぱり気になってるなら行かないとだめだと思って並んで食べた。
自分自身が突然新しくなったり、考え方が変わったり行動を変化させることはきっとないのだけれども、出てきた時に自分はもうちゃんと年を取りたいんだ、そういう周りに合わせて変化していくことを拒絶していた自分もそれはそれでいいけど、変化することをしてもいいのだな、と思った。

人生で多くの人に迷惑をかけてきたように思う。
しかし僕も多くの人に迷惑をかけられてきたのだし、貸し借りなんて考えないできてきたけれども、それは結局エヴァンゲリオンという世界の中では、等しく虚しい事柄であったからなんだと思う。
僕を構成する最大の要因がエヴァンゲリオンではないし、そんなにめちゃくちゃ大事なことではないけれども、僕が自分の年齢を否定し続けたかったのは、終わることができない、始めることができないと思っていたからだった。

エヴァ以外の多くの作品の最後を見るたびに、そっと本を閉じて、そこに寄り添ってきた時間のことを考えるときはあったけれども、エヴァという作品ほど超個人的な作品の広げるだけ広げた風呂敷を自分で閉じてくださいね、と言われることは考えてなかった。
そういう意味で考えるとエヴァのようななんだかんだと接してきている世界は殆どないから、特別なのはあるのかもしれない。庵野監督の本心はわからないけれども、お疲れさまでした、と個人的に思う。

僕も自分の人生をちゃんと始める切っ掛けにできるんだとおもう。大きく変わる必要なんてない。
ただ、ずっと頑なにゆっくり回していた時計の針をすすめることをしよう。
僕が止まっていられる大きな理由の一つが、解消してしまったのだから。

 

さようなら、すべてのエヴァンゲリオン