終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

SEED FREEDOM を見てきた【ネタバレあり】

2月です、皆様寒い中いかがお過ごしでしょうか
こんにちわ僕です

ガンダムSEED FREEDOMを見てきました
劇場鑑賞中に帰ろうかなと思った映画について思い出すことができないですが、久しぶりの感覚でした
しかし見終わってみると、意外なことに満足感があり、久しぶりのキッズアニメも楽しいなと思っていたのです
それが1月の終わりのこと


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時間が経って考えてみると、そもそもそういうものだったんじゃないかというふうに考え直したところ、やはり見た直後の強烈なむせ返るような平成初期の空気感という感想は間違っていないのだなと思うに至りました
アニメは娯楽でありおもちゃを売るためのツールだったなぁと
2000年代以降のガンダムは00やオルフェンズに水星の魔女、宇宙世紀であればユニコーンにサンダーボルト、ハサウェイなど現代になるにつれ話の複雑さや綿密な伏線と脚本、強いメッセージがあるのだろうなという思い込みをしていたのだけれども、そうだった、馬鹿なことも魅力なのだと教育された映画だった
ここ数年で最も素直に裏のない表現を取り入れ劇場でくすっと苦笑いをする作品だった
満足度は高かったんだと思う

考察をすることも楽しみの一つかもしれないけれど、そのまま額面で受け取ったほうがいいんだろうなと思うことはこの先の自分への教訓にしたい
笑ってしまったいくつかのポイントについてメモのようなものを残しておきたいので、この先は大いなるネタバレになります

これ以降はネタバレ

ラストシーンが大いに盛り上がるのは愛、SEED世界では戦争と愛が描かれており、劇場だからと言いということはないはずなのだけれども、ラストでは結ばれている人たちは大いに発散させていた、アスランカガリのあられもない姿を想像しライバルキャラクターの心を読み取る能力を鈍らせて叩き切るし、なんとか生き延びた不可能を可能にする男は艦長とディープな口づけを何度もする、ラストカットでキラとラクスはパイロットスーツを脱ぎ捨て海辺らしきシチュエーションで裸で向き合っており、まさに愛だったのだろう

今回の敵役は全員間抜けしかおらず、これは尺的な都合で本として成立させるのが難しかったためだと考えられるが、本当に間抜けしかいないのがすごかった
SEEDのクルーゼやカガリとキラの関係などの深みを捨て、SEED DESTINYデュランダル率いるザフト、連邦のステラの下り及びジブリールの間抜けが超高度な政治をしているように見えるほどに、全部雑だった
00のミスターブシドーなど霞むほどに雑

シンに精神攻撃をしようとした際に心の闇に逆に飲まれるシーンはギャグだったがあの表現が一番正しかったのだろう
アスランはなぜかズゴックで戦い、爆破すると中からジャスティスが現れ、謎の女はギャンに乗っており、本物だった
フリーダムガンダムだけがひと世代前の期待であったが最後の最後にダリフラのような仕組みによって超進化を遂げたことも良かった

蛇足ではあるけれど、物語としてみるとDESTINYがまともに話を終わらせなかったことに対しての幕引きをする側面もある。
また一つ終わったんだなという気持ちになった
SEED DESTINYではデュランダルによって『すべての人類が幸福であり平和に生きるためのデスティニープラン』を提唱し、それは良くないんじゃないか?というもやもやのままにラクスとキラやオーブ連邦などによってデュランダルを撃破するところまでが描かれていた
ただ、デュランダルの提案は外面は良く、世界としても受け入れの姿勢を見せている国もあり、いきなりその希望をキラ達によって打ち砕かれた人類も多くいたことを考えると、そういう側面では物語が始まったばかりであった
当時こういうアニメは少なくなく、その後について言及されないことは物語ではしばしばあるのだけれども、それにしても中途半端に終っていたので、そこを完全に回収した形になっている
そのため物語を通して一切出てこなかったラクスの母親を迎え、コーディネーターの上位種という設定のアコードというものが登場し撃破される
結論としてキラたちの選択は未来は誰かによって決められるものではなく、自分たちが選択肢決めていくのだ、という決意を結論して総括したので、CE世界においてはまだまだ戦争も起こるしずっとバチバチにやり合っていくのだろうと思う
最後までザフトと連邦はバチバチにやり合っていたし、連邦とザフト以外の人達は全く協力しないし、核はどんどんうつ。人類は数百人規模になるまで彼らは戦争をするんだと思う

アニメの話

エルゴプラクシーというアニメがある
2006年の作品だということでもうそんなに時間が経ってしまったのだと思うのだけれども、よく考えると自分の好みは大衆的な作品ではなくサブカルやアングラというもののほうが好きだったなということを思い出した
何故か世の中がそっちがわの面をした作品が多くなったような勘違いをしていたので忘れていたが、僕がマジョリティーによったのではなくてマジョリティーが大人向けになっただけだ


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2000年後半のアニメが量産され始めた時期に例えば涼宮ハルヒなどのラノベの皮を被った青春SFや日常などの不条理コメディ、らきすたのようなゆるふわヘンテコ日常、電脳コイルのような子供向けを装った本格SF、とらドラのようなドロドロ恋愛など、アニメ視聴者にに世代や背景を求めないカオスな期間が結果としてシュタゲや東のエデンコードギアスなどが受け入れられていく土壌を作ったのだろうと思う
そういう意味では最も個人のセンスが花開いた作品が多くあるのが10年代に集まっているのだろうと思う
劇場では新海誠細田守という名前だけで作品が売れ、テレビでは幾原邦彦ピングドラムを作りあおきえいアルドノア・ゼロを作り、虚淵玄が売れた

短い日本アニメの歴史ではあるが、その礎とも言える90年代後半から0年代前半の濃密なアナログアニメの大事なピースとしてのSEEDが現代に同じ空気感で(多少馬鹿すぎるところがあるにはせよ)感じられたのは良かったのではないだろうか


後悔しているとすれば、もっと気楽な感じで見に行けばよかった、そう思うところだけが残念だ