終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

サクラの舞う頃、ぼくはまた、

気がつくとひと月近くがたっていた。このひと月で何があったのかいまいちよく思い出せないのだけれどもいろいろな事があったんだと思う。というかなにかがなければ自分は本当に何をしていたのか全く意味が分からない。生存するために生きているのか、思考するために生きているのか、ゴミを吐き出すために生きているのか。最後者が一番それらしい。

去年の末からなんだかんだと就職活動をしていたのだけれども、とりあえずは一つ内定をもらった。ものすごい高待遇で迎え入れてくれるので、非常にありがたい話なのだけれども、その前にやっておくべき事が非常にたくさんある。今はその調整に追いかけられている。

また、今居る会社が上場したという事で、会社自体が浮き足立っている事と、自分たちのチームがいまいちうまく機能していない事にちょっとしたゆがみを感じる。スケジュールは守られるべきである。コストとはぎりぎりでたててはいけないものである。明らかに超過した機能は何らかで調整していくべきだ。ここに居る人たちが無能ではない事を僕は知っているので、彼らは彼らなりの解答をだすだろう。僕はそのようにして彼らを信じることしか出来ない。

時間はどんどん前に進んでいく、いやと言おうともどれだけ今が良いと言おうともどんどん前にすすんでいく、後ろ向きにずり下がる事なんて出来ない。死んでももしかすると時間という概念からは縛られているのかもしれない。もし遡れたとして、僕に何が出来るだろう。

春という季節が嫌いだ。

たいてい春頃になると、僕は様々な理由からパートナーを失う。もしくはパートナー候補であったはずの人を失う。それは僕の手の届かないという事であり、彼女達は元気に生きている。どうして僕にそれを責める事が出来るだろうか、どうして僕が追いかける事が出来るだろうか。

春は出会いの季節だと言うが、僕にとっては卒業や別れといった、冷たいイメージがどうしてもつきまとう。祖母は早春に、父は春に亡くなった。死別のイメージもある。僕はあまり春が好きではない。会社も失った。春がくる度、サクラの花が舞う歩道を歩いていると、ひとりぼっちなのが極端に意識される。ふとした暇がそのぐらいの頃にやってくる。夏になる事にはもう何もかもが狂ったように忙しい。秋がきて、冬が来て、忙しさは過酷を極める。

そして、ふと息をつくと別れの春がやってくる。今年は31回目の春だ。