終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

運命って、多分あると思う。

私が私を失っても、本当の意味で私のことを探そうとはしないだろう。悲しいことじゃない、それは運命で真実だから、私が関与できる事柄なんてないし、諦めのため息をつくことしかできない

 

最近ポップな曲を作ろうと、自分がポップじゃないと言ったそばからポップソングライターになろうと躍起になっているが、どうも思いの外ポップとはなんだろうという感じでポップになりきれない自分がいる。中田ヤスタカとか、小沢健二とか清竜人25とか、きゃりーぱみゅぱみゅとかSEKAI no OWARI とか聞いたりして、ポップとはなんだろうと延々と考えているのだけれども、共通しているのはキックじゃなくてスネアじゃなくて、ベースなんだなと思ってる。関係ないけど小沢健二が完全に確立されて20年が経ってしまった。フリッパーズギターとかだともっと前で、なんだびっくりするほど昔だなってなってる。最近の音楽シーンは全然わからなくてアマゾンの音楽ダウンロードランキングを見たりしてエグザイルなんですね、シーンは。

 

生きてるってことが最近ではよくわからなくて毎日ふわふわしていて大丈夫なのかなって、自分の足元を見るんだけれども、ちゃんと地に足はついているのでまだ死んでない。ずっと前に別れた恋人のことを思い出して懐かしくなってる。多分過去に生きてるんだと思う。『俺は、片方の目で過去を見て、もう一方で現在(いま)を見てた。目に見えてるもんだけが現実じゃない…そう思ってた』『醒めない夢でも見てるつもりだったんだ…。いつの間にか醒めちまってた…』と最終話のスパイクのセリフを思い出す。こんなかっこいい言葉じゃないけれども、最近は本当に僕は過去に生きていて、自分の目は未来に全然向いてないなって思った。自分には未来しかないのに、ぬるくて気持ちよかったかこのことばっかり追ってるような気がした。同時に未来は厳しくて辛くて困ったものだと思い込んでるんだ。そんなことはないはずなのに、なぜだか自分では過去を見て過去に浸って気持ち良くなることが当たり前になってた。自意識過剰な自分が可哀想な自分を見て気持ち悪く可愛がってる。死んだ犬のことを思い出して胸を痛めてる。今の自分はもっとひどい状態なのに。今の自分から目をそらしている。

 

運命とかそういうものは当たり前のようにあると思っていた。自分が不運なのはそういう運命の元にあるからだと信じ込んでいた。いや、いる。自分が単車に乗れないのはいろんな物事のせいにしていた。でもそれは間違ってるんだってようやく目が覚めてきているような気がする。けれども、今まで使ってこなかった目は、ただ現実が眩しくて、前を見ることを嫌がっている。目を開けようとしてそのあまりの香料に目を閉じようとする。見開いた現実のひどさに吐き気を催し、何度も目を閉じる、瞬きの連続。そしてまた僕の目はそっと閉じようとしている。何事もなかったかのように。運命が僕に良くない方向を指ししめしているんだともう一度自分を暗示にかけるために。自分自身の弱さを自分自身が信じないために。それでもなお真実として、運命とは残酷な一面を持っている。僕はその残酷な一面しか見ていない。多面的でその指し示すベクトルは他にもあるというのに。きっと。

 

そう、エドはお父さんの元に帰るんだ。

 

 

TVアニメ「 ユリ熊嵐 」オープニングテーマ「 あの森で待ってる 」

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