終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

僕はポップスターにはなれない::暗いので読まなくていいです

小さい頃からヒーローに憧れたり、ポップなものを好きだったりしたことがない。かと言って悪い方に興味がすごくあったわけではない。ヒトリボッチだった。友達もいっぱいいたように親は感じているけれども、僕はどうも人付き合いが苦手らしくて最初はいいんだけれども、そのうちどう接していいのかわからなくなってくる。それはだれだってそうだと思う。だって、お互いに持ってるものとか考え方とか何もかもが違うから、自分と同じではないから、それわかろうとしない限りなんにもわかんないし、わかろうとしたところでわからないものだし、だから人間は努力するんじゃん!!

ポップに生きて、象徴的な何かに慣れればいいかもしれない、でもそれってすごく大変で、すごく一般的になっていくことを迎合しなくちゃいけなくて、ポップなものも好きだし自分だってそのポップさに乗っかっていきたいのにどうしてもどこか頭の奥のほうでシリアスに冷たい自分がいて一歩を踏みだそうとすると、その自分がゆっくりと自分にやってきて、楽しそうなものは我慢しろっていって、そっちに行こうとする自分をさっくりと切り落とす。

友だちがいないわけじゃない。

でも、本当に僕はヒトリボッチだと思う。それは自分のせいなんだって思う。誰かをわかろうとしないことも世界を知ろうとしないことも、自分の世界の中でいきていけることを知っているから、そんなものは必要ないんだって、けれど、それって寂しいことだよって思って、人間は一人で生きていけるけれども、とても寂しいっていう、その矛盾した心を持ってるんだなって思う。最近は特にひしひしと感じる。

クリスマスが近い。お正月も近い。そしたらもう卒業のシーズンになる。僕は卒業式で悲しいなんて、寂しいなんて思ったことがない。時間がすぎるだけだ。ただそれだけだ。泣いたり笑ったりしながら毎日を過ごしている人たちのことは、分かった気になってる。でも、そう出来ない自分がいる。

でも、文章は正直だ。僕はテキストの上なら泣いたり笑ったり出来ると信じてる。長文の中でポップになれない自分がいてもそれは自分の文章がポップじゃないだけで、辛いとか嫌だとか、楽しいとかってちゃんと言葉に出来てる気がする。それは隠喩とか暗喩とか、遠回しな表現だったりするかもしれないけれども。それは誰もが知っている言葉ではないかもしれないけれども。

僕は誰よりも美しいものが好きだと思ってる。僕の頭のなかはボケ老人とは違うけれども、それぞれが連結していない。シナプスのつながりが弱いように感じる。それで生活に困ることはない。単純に、ただただシンプルに能面の自分がいるだけだ。笑ってもどこかうそ臭くて、自分はそんなふうに思ってないけれども、怖い人間なんだと思う。

人の死があった。辛いと思う。人が壊れていく。辛いと思った。思ってもそれは、思っただけで何の結果にもつながらない。僕が尊敬する人は僕のことがどんどん苦手になっていくような気がする。僕はどこまででも教えを請うからなのかもしれない。もしくは尊敬しながらも教えを請いながらも自分自身が成長しないことに苛立ちを覚えるからなのかもしれない。僕は僕でしか無い。成長という言葉があるのだとしたら、多分僕は成長はしている。しかし、それはポコポコと新しい領域が追加されていくだけだから、そこに関連性がない。人はそれを見てどう思うだろう、少し気味が悪く思うのではないだろうか。そうじゃないって行ってくれていた人たちも疑問符を頭に浮かべるのではないだろうか。

僕はポップスターにもヒーローにもヒールにもなれない。一般市民ですら無い。有機物か無機物かで行ったら無機物のほうが近いのかもしれない。それでも人間であるから有限であることを知っている。諸行無常というもの言葉を言葉には出来ないけれども理解している。感動がない。いや、感動は在る。しかしその感動は果たして共有できるものだろうか。驚きもない。いや、驚くことも在る。

程度の低い人間ではなくて、僕は僕でしか無い。人間の形をした蛋白質の塊だ。命があるとするならば、それを僕は自分が知らない。

僕は何なんだろう。問うのはもうずいぶん前にやめたはずなのに。ふとした瞬間に自分とは何者なのか問うている。それは無意味なことなんだよ。それは、それは無意味な、事なんだよ。

わらいたい。