終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

3月の終わりがとても寒い

3月が終わる。
こんにちわ僕です。

3月が終わるのか。昨日は雪で、あまりにも寒くてびっくりするぐらい寒かったので、雪が降っていた。
窓から見える世界が雪国で、あまりにもあまりにもだったので、とてつもなく寒いなと思いながら、どうしても外に出たくて着替えてスーパーに向かった。
スーパーでは、少し前に買っていた好き焼き肉を利用したすき焼きを作ろうということにして、足りない材料を買った。
氷がなくなっていたので、氷を買った。

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最近毎日体重計に載っていて、最初の頃は結構なんだかんだいいペースで落ちていたんだけど、外食やらピザやらが重なって、結局元に戻っている。
まぁ、ゆっくりやるしかない。ご飯はちゃんと食べたほうがいいというのは変わっているのだけれども。
チャレンジ企画をするも長続きしない自分なので、仕方ない。

この土日で感じていたのは、やっぱり家でなんとなくそれっぽく作業ができる環境をつ作ることがすごく重要だなということで。
コンパクトでいいんだけど、モニターとキーボードとという感じで何らか揃えたいけど、中途半端な物だったらなくていいやってなるし、難しところ。
BTO見てみるか・・・?

なんとかかんとかして、つい先日彼女と彼女の猫を見ていた。
そう、こういう感じなんだよなって思った。
毎回新海先生の作品が出てくる日記になっているが、単純にもはや今デキる仕事がなくなってしまって暇なので仕方ないということで、全部先送りにされていて暇だなーっていうのが今なので、さーてどうしたものだろうねぇ。。。

閑話休題

昔の友人が僕の本を全部買ってくれていて、そういう意味では恥ずかしいながらも、きっちり本を書くべきだなと思っているんだけれども。
どこで書き始めても全然気分が乗らないっていうのが一番の問題で。
まずはリハビリがてら書いてみるのがいいよなって思って入る。
しかも僕は結構陰鬱だったり意味不明な本ばかり書いていたので、もうちょっとちゃんとエンタメした本が良いんじゃにかと思っていて。

note.com

日記ソニックをPatoさんがやっていて、最後の締めに『年明けからは地獄だった』みたいなことを書いていて、たしかにそのようなこともあるのだなと思って。
それでもそうやって完遂しようという強い意識と自分が向き合う姿は大丈夫通って思ってしまうと同時にすごいなってシンプルに思った。
テキストサイトは当時は洗浄だったけど、誰と戦っているのかは全然わからなかった。
読まれる文章を書けば、アクセスカウンターが回る。それだけだ。
コメント機能があったり掲示板があったりしたこともあったが、多くはなかった。
昔のCGI掲示板は今や目も当てられない誰も読まないスパムで埋め尽くされ、閉鎖されている。
インターネット廃墟だ。

そのぐらいインターネットが複雑になって自分たちのものでないというようになってしまったことから、きっと手エキストを書く人間が減ってしまったのかもしれない。
面白いネタを面白いテキストにすることができるのが講談、話ができるのが芸人、フィクションにできるのが娯楽小説家。
みたいにすると、テキストサイトは講談に近いだろうか。
おそらくすべてのテキストにはホコリが被り、半世紀もすれば覚えている人間がいなくなるのだろう。
それが時代の本質ではないからだ。

しかし僕はそういうのってなんだか寂しいなって思う。

あと、もっとみんなの日記というか雑記というか、狂気に満ちていないなんでもないテキストをぼくは読みたいのじゃ!

隣人を殺してはならない

タイトルの通り、この記事は『隣人を殺してはならない』という内容である。
こんにちは僕です。

この間の記事はだいぶふざけて書いたけれども、読み直してみると結構的身に冷静に書いていた。
そして、今の時世だ。日本だけが浮かれているという流布がなされているが、それは違う。
日本だけがまともで、隣国が異常である。
つまり我々が楽観視しているものが正常であり、パニックんあればなるほど、深刻な事態になる。

僕よりもさとく賢い人間がごまんといるのに気が付かないはずがない。

オセロというゲームがある。
初めて祖母とオセロをしたときに僕はルールを知らなくて、好きなところにおいて、好きに裏返した。
しかしそれは間違っている。
僕は囲碁のルールを知らない。
つまり、ルールさえわかれば、それは勝っても負けてもゲームになるということで、僕の一番の不可思議は、なぜ二元論でしか世の中は語れないのか?ということだ。

世の中にはあいまいなことは多いが、二値化することに意味がある。

そもそも僕たちは別に何ら指針も与えられていないし、どうにでも生きていけるはず。
僕自身がくるっている可能性は排除しない。
これは、僕が何度も死んでいる可能性を示唆している。
犯人は不特定である。
ただ、それを突き止めることは無意味だ。
なぜなら社会というものが幻想だからだ。
つまり、新用途は虚実であり、信愛は本物だからだ。

隣人を殺してはいけない。

いいか。君の愛しい人間がいくら疑わしかろうが、殺してはいけない。
それは、社会というまやかしに波紋を広め、疑問を抱かせる。
そして自信を傷つける。自分のために人を傷つけるべきではない。
人間を殺す理由を見つけてはいけない。

今はおとなしくすべきだ。感情を無にし、ただ時間が過ぎ去るのを待つべきだ。
おそらく。

隣人とはだれか。
ここが一番の肝だ。
隣人とは、友人であり最愛の人々だ。その人たちが来る区過労が、助けるべきでできる限りのことをすべきだ。
そうやって。我々は救われる。
神様は、心にいるが、残念ながら共通なものではない。
神様は幻影であるが、実在する。
それが隣人だ。
だから殺すべきではない。いくらその人がくるもうが、幸せを願い、そして幸福な死を望むべきだ。
介在すべきではない。
それは僕のように心を壊してしまうことになる。

人間はひとを殺めることはできるが、隣人を殺すことは許されない。

隣人は殺すべきではない。

チャリ 井口 消えた今

世の中が暗いニュースばかりだし、僕も暗いニュースばかり書いているので、バカみたいな話を書こうと思い。
こんにちわ、僕です。

少々エモい話になるんですが、皆さんは世界ってどのぐらいの広さだと思いますか?
もちろん僕たちの頃なら百科事典や、科学の本を読めば面積は載っていたし、知ることもできたわけですが、実感として『人と会える距離』が世界の広さだと思っていました。
今もあんまり変わんないんですが。
それで、高校生の頃の僕は、自分は有名ではありませんでしたが和歌山市内の県立高校にいて、ふてくされた毎日を過ごしました。
その頃は自分があまりにもコンピューターが好きだったので、MMXPentium233MHz / 32M /3.2GHDD のマシンで、Diabloをやったり、Photoshop4を触ったり(アンドゥが一回しかできなかった)そんな毎日を送っていたわけです。
インターネットあまりに使いすぎるので電話台がバカ高くなって父親から何度も怒られて禁止されたりしたので、なんとかしてインターネットしたいと思ってモニョモニョ色々やったりしていました。
そのぐらいインターネットは不便だったし、でも楽しかった。
オフ会も15歳で行ったし、出会ったおっさんおばさんは優しくしてくれて良かった。

まぁ、世界の距離なんて意識したこともなかった。
『世界、っていう言葉がある。
私は中学の頃まで、世界っていうのはケイタイの電波が届く場所なんだって漠然と思っていた。
でも、どうしてだろう。私のケイタイはだれにも届かない。』ほしのこえより)
このフレーズを聞いた瞬間僕の内側の何かが爆発するまで。(確か19歳のとき)


ほしのこえ 予告編 (The Voices of a Distant Star)

爆発した僕は高校生の自分を思い出していた。

僕が住んでいたのは和歌山市紀の川の近くで、毎日のように友人や知らない人間がたくさん溜まっていた。
その御蔭で随分隣りにいた弟は僕にキレていたようだけれども。
6畳もない部屋に多いときで10人以上がその場にいた。(部屋にはベッドも、小学校のときに使っていた学習机があったりした。フリースペースは2.5場といったところ)
なんだかよくわからんカオスがそこにはあって、単純に場所があって人が来ていた。
実家はムダに広いので、玄関から僕の部屋がちょうど対角線上にあり、廊下でつながって入るがあまりにもみんな堂々と入ってくるので、家族は誰も止めなかった。
玄関→廊下→階段→廊下→一番奥の部屋

その中で固定メンバーという感じで男5人がよく集まっっていた。
全員違う後攻で、学年も同学年が一人と3人は年上だったように思う。
完全に僕を含めそいつらは狂っていて、夜中まで何が面白いのかさっぱりわからんがとにかくよく集まってどんちゃんしていた。高校生時代。
友だちというには人となりを知らないままに近い距離になりすぎていたし、知らない人と言うにはあまりにも近すぎた。
今思うと楽しい時間帯だった。

そのうちの一人が井口というのだけれども、そいつが夜中になると奇妙なことを言うことがよくあり、例えば『公園に行こう』『線路を走りたい』みたいなことで。
その日はいつになくおそらくテンションが高かったのだろう。
突然『自転車で行けるところまで行こう!』と言い始めた。
何を行っているのかわからないが、と思ったけれども、とにかくみんな準備を始め、自転車にまたがった。
もちろん全員ママチャリのようなものである。
チャリで来たのコピペのずっと前である。


先にうろおぼえながらどこに行ったのかを示したいと思う。
和歌山市(中心地)→打田→加太→和歌山市(中心地)

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というルートを深夜に爆走した。
プランなんてなかった。


冷静にあとから考えるととんでもない距離を走っているんだけれども、当時は携帯電話も普及していなかったし、誰も時計をまともに所有していなかったので、正確な時間はわからないが、加太についたときはまだ深夜で、そしてすごい雨が降ってきた。
そもそもどんちゃん騒ぎすぎてさっぱり行程は憶えていないのだが、夜中に爆走する高校生5人組をおまわりさんはよく止めなかったなと思う。
ワーワー言いながらとにかく堤防を走った。暗闇である。
今改めて上の図を見ると相当なスピードでチャリで走らないと無理な距離だな、これ。
思い出補正はあったとしても、いやしかし別日ではなかった。

そして雨の中、多分明け方なんだけどまだ暗く、コンクリートの加太の港にへたり込んだあと、我々は銘々に何かを叫んでいた。
何を叫んだのかは憶えていない。

結局、自転車で移動できる範囲が自分たちの世界への理解の限界なんだと、思い知らされたのだと思う。
僕は、結局その後上京するものの、主に目的地と家しか往復しない準引きこもりになったし、物事を知らない頭でっかちなまま37歳になっていまを生きている。
弟二人はちゃんとまっとうと言える人生を送っていると思う。
5人のうちまともっぽいのは一人で結婚して幸せそうだ。
井口は音信不通で行方がわからない。

 

僕たちがきちんと自分の世界を知ることができるようになるまで、一体どのぐらい賢くなるなる必要があるのだろう?
それとも、ある一定の歳を重ねたら理解できるようになろうだろうか?

17歳の少年の自分に37歳の自分から伝えられることは『怒られなくてよかったな』ということかなと。
本当に、ドラッグややばい何かではなく、ナチュラルにハイだったんだろうな。

しかし一晩で本当に約60キロを走破したのだろうか?

ノンフィクションです。