終末を待つだけの雑記

永久に青春を感じる中年がお届けします

転職活動記 2015 -07

僕は女装をすることがある。

 

異性装をすることは自分のオプションとして常にあって、いつまで続くのかはわからないけれども、女装をすること自体は僕にとってそんなに不思議なことではない。普段男装しているのだから、たまの休日や羽が伸ばせる日にそうでない自分になることは何も不思議なことではないと考えている。やってみるとわかるのは自分は男性でも女性でも特段取り上げられるべき人間ではないということ。自分は特別ではないし、待ちの誰かに何かを指摘されるほどの特別さは何処にもないということだ。

そもそも何で女装をするのかということを話しているうちに、自分がどちらの性別であっても構わないと思うことがあるようだ。自分は男性だからといって、女性だからといって、前提を持って話をされることが苦手なのだと、なんとなくわかった。ぼくがそういう話し方をするのが嫌なのだ。男の人は男らしく、女の人は女の子らしくしなくちゃ成立しない世の中のように考えるのは一方からしか物事を見れていないんじゃないかと思う。こういう時に誰かの言葉なんかを引用できればかっこいいんだろうけれども、生憎僕には言葉を持ち合わせていない。男性であることは違えることのない事実なのだけれども。

こういうのをなんというのかな、と言っていて、友人と話している時にそういう話が出たなと思って調べてみたところ

X-ジェンダー

というらしい。

何にせよ文章が曖昧であって、どちらでもないとしか言っていないので、自分のそれが本当にそうなのかはわからないけれども、完全なバイセクシュアルだとはいえない自分なので、きっとそういう分類されない何かになりたいのだろうと思う。規定されない自分で在り続けたいと思うのだろう。

だからトランスジェンダーの人のことを、ゲイの人を、バイの人をのことを僕は完全に理解は出来ないのだ。僕は顔がきれいな人が好きなだけで、その顔の綺麗さは自分の中ではっきりとした規定があって、そこに到達できない人に対しては不感症なんだと思う。そういう意味で僕はゲイでも有りビアンでも有り、バイでも有り、そもそもそういう行為自体を楽しめるタイプの人間ではないのかもしれない。昔は楽しんでいたので、明らかに自分という人間に対して自分で枷をはめてしまっているような気はするのだけれども。

 ただひとつ言えるのは、僕に大島薫さんになれることも、ぼくらのへんたいの主人公たちになれることも出来るチャンスはなかったということだ。